沿革
日本にカラー印刷技術を導入|受け継がれる伝統と精神|年表
日本にカラー印刷技術を導入
創始者田中松太郎は、文久3(1863)年、富山県の下級武士の家に生まれました。十八歳で京都へ、そして二十歳で東京に出てきた彼は、書家であり、大久保利通の太政官を勤めていた日下部鳴鶴の書生となります。鳴鶴には松太郎と同い年の息子、田中美代二がいました。松太郎は新進の写真家であった美代二から写真を学ぶとともに、美代二が参加していた「十一会(工部美術学校の同窓生で作った洋画研究のための同好会)」のメンバーとも親交を結びます。そして二十八歳で美代二が急逝した後は、彼の妻と結婚、田中姓を名乗るようになりました。
美代二の写真店を継いだ松太郎は、牧野伸顕に随行し、明治33(1900)年パリで行なわれた万国博覧会の日本事務所の事務員として渡欧。博覧会が終わって後は画家として立ちたい気持ちが強かったが、浅井忠画伯に画家になるよりも写真を勉強して製版技術を習得するよう諭され、織田琢二博士の紹介もあって、ウィーンへ渡り王立の写真学校に入学しました。写真による原色版の技術を、その未知の日本へ持ち帰る意義を悟ったからです。ここで三色版印刷、いわゆるカラー印刷技術を学んだのです。
ヨーロッパ留学中、彼は当時ヨーロッパで活動していた画家、浅井忠、中村不折や文豪夏目漱石、永井荷風らと親しく交流がありました。後にこの時代のそうそうたる芸術家たちが彼のブレーンになるわけですが、それはヨーロッパ時代に培われた人脈が広がったといえます。
明治42(1909)年松太郎は帰国。いくつかの印刷会社を勤めた後の大正4(1915)年、「田中半七製版所」を創業しました。日本に三色印刷を導入した松太郎が始めた印刷所は、創業当初から松太郎の人脈の豊富さも手伝って、各方面から多く受けました。その取引は現在に続いています。
カラー印刷技術については日本一と、自他ともに認めていたため、高名な画家が自ら作品を半七に持ち込み、松太郎の仕事部屋には何枚もの絵画があったといいます。自身も芸術家と自負していた松太郎の仕事は徹底していました。当時松太郎は社員から先生と呼ばれており、半七は、企業というよりも私塾のような雰囲気がありました。松太郎の仕事に対する厳しい姿勢は社風として定着し、品質第一主義の理念は以来半七の伝統として連綿と続いています。