沿革

日本にカラー印刷技術を導入受け継がれる伝統と精神年表

受け継がれる伝統と精神

米屋 勇
米屋 勇

 米屋勇が半七冩眞製版所に入社したのは、大正9(1920)年でした。松太郎から分解写真の技術を伝授された勇は、やがて半七の幹部社員として育ち、昭和13(1938)年には工場長に就任。業界初の8時間労働制や月給制を導入しました。

 昭和23(1948)年、半七写真印刷工業株式会社に改組、勇が代表取締役となります。以後、日本の躍進と共に大きく半七も成長していきます。原色版の老舗としてだけでなく、その確かな品質のもと注文がありました。勇はカメラマンとしても活躍していましたが印刷製版についてもよく研究しており機械導入に積極的でした。印刷の自動化を進め日本初のハイデル凸版機のモデル工場になったのは昭和28(1953)年。仕事も順調に増え職場は充実していました。それは社長の勇の人柄に負うところが大きかったと当時を振り返る誰もが口を揃えます。

日本で最初にドイツ製ハイデル凸版印刷機を導入
日本で最初にドイツ製ハイデル凸版印刷機を導入

 勇がドイツデュセルドルフでの印刷機材展「第四回ドルッパ展」を視察するために旅立ったのは昭和37(1962)年でした。この視察で、時代はオフセットに確実に変わっていくことを勇は意識します。原色版からオフセットへ半七の新しい幕明けでした。

 もはや原色版の時代ではない。昭和48(1973)年代表取締役に就任した米屋功は、原色版の老舗ゆえに遅れていたオフセット化へ半七を転換させていきました。昭和50(1975)年ハイデル2色機を導入。半七のオフセット化は印刷部門から始まります。昭和52(1977)年にはそれまで別れていた製版部門と印刷部門を統合して本社工場を増築し、空調を始めとする一貫した管理体制を確立したのです。オフセット化をなんとかしなければ駄目だ、いや、それ以上に半七のシステムを新しくしなければならないという功の危機感は半七のオフセット化の求心力となりました。昭和54(1979)年には製版部に4色同時電子分解のダイレクトスキャナグラフ「SG710」を導入し、その後積極的にオフセット化を進めていきます。印刷部門の設備更新も繰り返し半七の製版から印刷までのトータルシステムを育ててきました。

CTP
CTP
レイアウトデータから印刷用の原稿を作ります。
菊全6色ハイブリッドUV印刷機
菊全6色ハイブリッドUV印刷機
さまざまな高付加価値印刷に対応します。

 情報化時代の到来によって、印刷環境はデジタル化へ大きな変化が始まりました。マッキントッシュによるDTPの取り組みを平成7(1995)年に始め、デジタル入稿の対応を強めていきます。平成12(2000)年にはCTPを導入し、製版部門の工程短縮と品質向上に取り組みました。また色校正のデジタル化を進めるため、2003(平成15)年にコンセンサスプロDDCPを、2006(平成18)年にはプリモジェットDDCPを導入しました。印刷部門には自動調色機、刷版絵柄面積率読取装置など省力化、データ化に取り組みます。2008(平成20)年に、菊全判オフセット6色機を導入し、さらに製品の高品質を追求し、2014(平成26)年には、ハイブリッドUV(H-UV)化を工場内で図り、高付加価値印刷への対応にも取り組んでいます。

 半七の次の課題は、マルチメディアに対して印刷会社として何ができるかということ。時代に先駆けて新しい提案をしたいと半七は考えています。